2022-02-18 涼子さんの対談のメモ
(メモ)
人物の描き方や、捉え方のなかに「キャラクター」のようなものを設定する→いろんな面があるはずの人間を見られない
ひとつの言語を話すことは当然である国である、ということ
涼子さん
フランス語で書いた本を日本語にするのが難しかった
母語にフランス語が介入してくる感覚
翻訳の時には人の作品や言葉を受け入れるわけだから、ある意味では自分の中に空のようなスペースを持たないといけない。
でも自分の作品を訳するときには、自分という作家がそこに実在しながらも、その空っぽの状態を持たないといけないというジレンマがあったのかも。
李さん
日本語は数式みたいに足して行ける
食べる 食べさせる 食べさせられる 食べさせられるようだ ……
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関口涼子さんのおっしゃっていた、自分がフランス語で書いた本を、日本語にする作業の中で自分のなかで何が起こっていたのか、の考察が面白かった。翻訳の時には人の作品や言葉を受け入れるわけだからある意味では自分の中に空のスペースを持たないといけない。でも自分の作品を訳するときには、自分という作家がそこに実在しながらも、その空っぽの状態を持たないといけないというジレンマがあったのかも、というようなことをおっしゃっていた。
写真を撮る時に、近くに誰かがいると感じる、自分を消滅させてレンズの向こうのものに入り込みたいけれど、自分の体が相手のためにそこになければならない感じがする、変な自意識のことを思い出す。涼子さんのおっしゃることとはきっと全然違うことなのだけれど。
今度涼子さんに会った時に聴きたいことがいくつかでてきた。